アルカーイダの行動
イスラーム主義急進派の系統に属し、反米・反ユダヤを標榜する。1990年代以降、主としてアメリカ合衆国を標的としたテロ行為を実行したとされ、多くの事件について自ら実行を認めている過激派、国際テロ組織である。
よく知られるように、組織のトップはウサーマ・ビン=ラーディンであるとされる。財力に恵まれていた彼は組織起ち上げのパトロンであった。一方、組織のナンバー2とされるアイマン・ザワーヒリーは理論家であり、ビンラーディンから見ても信仰と活動の先輩格であった。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件を実行し、世界に大きな衝撃を与えたとされている。
そのため同年10月の有志連合諸国・北部同盟によるターリバーン政権への攻撃で、それまでアルカーイダに庇護を与えてきたアフガニスタンのターリバーン政権が打倒されて資金的・人的に打撃を受けたとされ、アルカーイダの組織は一つ一つが小さな組織に分離しそれぞれが活動を行っている。一方で、オウム真理教のような明確な指揮命令系統を有する組織ではなく、過激思想を持つ者が勝手にアルカーイダを自称しているだけという説もある。
またアルカーイダは、その句の使用者にとって、警鐘として使用していると解釈することもできる。ヒジュラ暦の第11月は、ズー・アル・カーイダである。この月の名称は、前述の翻訳の句と「ズー」という所有格とから構成され、「(神が)所有する(安住の)基盤」という意味合いで、「安住の月」と和訳されることが多い。したがって、アラビア語文化圏の視点から、アルカーイダを解釈すると、「神の所有にない基盤」と訳すことができる。すなわちそれは「異教の基盤(The matrix)」を意味するわけであり、アルカーイダとは、異教の文化圏から侵略を受けた人々並びに世界のムスリムに呼びかける警鐘として使用されているとも解釈できる。
起源
アルカーイダの起源は、1978年のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻以降である。ソビエトに対抗して、CIAはパキスタンのパキスタン軍統合情報局(ISI)とともに「サイクロン作戦」などで、イスラム義勇兵(ムジャーヒディーン)などを訓練、育成し、武装化を進めた。同時に1984年、アラブ諸国からアフガニスタンへ義勇兵を送り込む「マクタブ・アル=ヒダマト」(MAK)がパキスタンのペシャーワルでウサーマ・ビン=ラーディンとビン=ラーディンの師でありムスリム同胞団のアウドゥッラー・アッザームによって組織化された。アッザームがビン=ラーディンをアフガニスタンに呼び入れたのであった。これにはサウジアラビア政府の支援もあった。これにジハード団の創設者であるオマル・アブドゥル=ラフマーンなどが合同し、世界各地からアフガニスタンに集まったムジャーヒディーンは、35,000人に達した。MAKはペシャーワルにゲストハウスを設け、さらにアフガニスタンのジャラーラーバードなどに軍事訓練キャンプを建設した。ソビエト軍のアフガニスタンからの撤退後、闘争の舞台をイスラエルやカシミール、コソボ、アルジェリアなど世界各地の紛争地に求めるムジャーヒディーンが、1988年にアルカーイダを組織した。ここにおいて、アフガニスタンでのアラブ人ムジャーヒディーンを理論的に指導してきたアウドゥッラー・アッザームは、アフガニスタン内戦を最優先するに対し、経済的な側面での実力者であった教え子のビン=ラーディンは世界各地でのテロ作戦を主張、両者の路線対立が表面化した。1989年、アッザームは子供たちと一緒に爆殺された。MAK体制は崩壊、アルカーイダのメンバーはビン=ラーディンの傘下となる。ビン=ラーディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国した。
その後、湾岸戦争が勃発、イスラム教の2大聖地・マッカとマディーナを領有するサウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことが、ムジャーヒディーンたちの反米意識を高めさせる。当時、ビン=ラーディンはサウジアラビアに帰国していた。
1992年、宗教指導者で民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでビン=ラーディンは密かにサウジアラビアを抜け出し、スーダンに移った。スーダンではオマル・アル=バシールのクーデターが成功、ビン=ラーディンはスーダン滞在中に建設事業などを進める一方、アイマン・ザワーヒリーなどと組織を強化、しかしテロを続けるアルカーイダはスーダンの厄介者となり、1995年、ビン=ラーディンやザワーヒリーはターリバーンが掌握していたアフガニスタンに拠点を移した。
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